院長プロフィール
はじめまして、曽於市末吉町で、病気を根本から改善することを目的としている、自宅鍼灸サロン、源氣鍼灸治療院の大川内拓也と申します。
当サロンには、どこに行っても病気や怪我が治らない方や、身体が辛いけどどこに行けばいいかわからない、そういったお悩みの方が多くいらしております。
当サロンの鍼灸治療は東洋医学に則り、身体のエネルギーバランスを調えることによって、運動器疾患のみではなく、自律神経の失調や内科的疾患、不妊症などの、あらゆる身体内部の治療にも長けています。
当サロンは、病気をあつかうネガティブな場所ではなく、元気になって人生を豊かに変える“ポジティブな場所”として提供しております。
どんなに些細なことでも、お気軽にご相談ください。
略歴
出身地 | 1974年 旧曽於郡末吉町生まれ 鹿児島市育ち |
学歴 |
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職歴・経歴 |
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保有資格 |
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学会発表 |
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所属 |
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プロフィール
氏名 | 大川内拓也 |
血液型 | A型 |
趣味 |
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好きな食べ物 |
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座右の銘 | 敬天愛人 |
全ての始まりは武術だった
私の生まれは、鹿児島県の旧曽於郡末吉町ですが、生後すぐに父の転勤で各地を転々としたため、ほとんどを鹿児島市で過ごしました。
曽於市には、鍼灸院開業のために帰ってきました。
実は、私はもともと鍼灸師になりたかったわけでもなく、治療家になりたかったわけでもありません。
武術家になりたかったのです!
変わってますよね(笑)。
高校の頃、初めて武術と出会い、自分のやりたかったことは「これだ!」と直感しました。
中国武術、空手、古武術、なんでも興味をもちました。
私にとって武術とは格闘技というより、身体の秘められた可能性を引き出す技術であり、武術家とは身体に精通する専門家という位置づけでいました。
武術の達人になるべく、高校・大学時代はとにかく武術に没頭し、修行に明け暮れる毎日でした。
救われた、ゆる体操との出会い
しかし生来の運動音痴の私は、大きな壁にぶち当たります。
なかなか上達できず、自分の才能のなさに苦しみ、やがて葛藤の日々を送るようになりました。
そんな時出会ったのが、運動科学者の高岡英夫先生の理論でした。
今では「ゆる体操の創始者として有名な先生ですが、当時は武術家としてのイメージがありました。
その先生のセミナーで身体をゆるめることの大切さと、後天的に天才を生み出す「身体意識理論」を学びました。
自分の求めていたものは「これだ!」と心が震えました。
それからは、ゆる体操と身体意識のトレーニングに明け暮れる毎日が始まります。
ゆる体操に傾倒したのには、もう一つ別の理由があります。
実は、私は高校生くらいの頃から、めまいや立ちくらみ、倦怠感などの不定愁訴にずっと悩まされてきたのです。
病院に行っても原因不明で、悪化するばかりだし、ずっとこのままなのかと、将来の健康にすごく不安を感じていました。
ゆる体操は才能の開発だけでなく、身体をゆるめることで健康になる体操です。
それに懸けた面もあったのです。
お陰様で、身体がゆるみ始めると、次第に不定愁訴も軽減し、徐々に心身が楽になってきました。
未来に希望がもてて、私にとってはまさに命の恩人といえるような体操です。
身体の勉強をしたくて
武術を通して身体に興味をもち、高岡理論に進みました。
そこで自分の目指す方向性は定まったわけですが、しかし身体の基礎知識を何も知らないことが、心残りでした。
当時私は、大学図書館で図書館司書として働いていました。
大学という特殊な環境もあったと思いますが、日増しに「身体について本格的な勉強をしたい」という思い強くなっていきました。
そのためには学校に行く必要があります。それも基礎からきちんと勉強するには、国家資格の取れる学校に行くべきだと考えました。
そしてその資格を生かして、「身体に直接関わる仕事」がしたいと思うようなりました。
そこで最初に考えたのが理学療法士(PT)でした。
学校に資料請求もして、説明会にも参加しました。
しかし、何かがしっくりこない。決められないまま、時が過ぎました。
鍼灸を意識した日
そんなある夏の日、私は作業中の不注意から“ぎっくり腰”になってしまったのです!
すぐに整形外科で処置しましたが、思うように回復せず、つらい日常を送る羽目になりました。
ちょうどそんな折、偶然にも東京で鍼灸学校に通っている友人が、夏休みに帰省してきたのです。
早速彼に相談したところ、人生初の鍼灸治療を受けることになりました。
緊張しましたが、その場で腰がスーッと楽になり驚きました。
初めて「鍼灸」というものを強く意識した、衝撃的瞬間でした。
その友人から、鹿児島には伝統の鍼灸学校があると聞いたので、調べてみると、翌週に学校説明会があることが分かり、とりあえずどんなものか参加することにしたのです。
そこで、「鍼灸は原因不明の不定愁訴に、非常に効果がある」という趣旨の話を聞き、長年不定愁訴に悩まされていた私は、「これだ!」と直感したのです。
怪我の功名、塞翁が馬とは、このことでしょうか?
そして、鍼灸学校に入学することに決めたのです。
当時33歳、年齢的にも再就職は難しく、もう後戻りはできません。人生をかけた最後の挑戦でした。
鍼灸学校時代
学校は、大学図書館の仕事を続けながら、夜間部に通うことにしました。
以後、朝7時半に家を出て、学校に行って帰宅するのが夜の10時という、ハードな生活を3年間、続けることになりました。
学校に入った目的はあくまで“勉強する”ためです。
だから、勉強した結果、その証として国家資格を取得しなければ意味がないと、並々ならない決意をもって臨み、生まれて初めて猛勉強をしました。
吸収できることは全て、貪欲に学びました。
クラスも夜間部だけあって、年齢も10代から50代と幅広く、個性的でとても楽しいメンバーばかりで、みんなで協力し合い、励ましあいながら、乗り切った充実の3年間でした。
本当に必死で勉強し、本気で向き合った3年間は、私の人生のまさに宝物です。しかも一日も休まず皆勤賞で卒業できたことは、誇りに思っています。
こうして、無事に国家試験に合格し、はり師・きゅう師(鍼灸師)の国家資格を取得できたのは、言葉にできないほど嬉しいことでした。
源氣鍼灸治療院誕生
学校を卒業し国家資格を取得しても、それだけでは何の治療技術もありません。
そこで私は、学生時代から通っていた“経絡治療学会”の鹿児島部会で、鍼灸技術の研修を積み、知識と腕を磨いていきました。
私は不定愁訴で悩んだ過去があるので、症状のみの対症療法では全く治らないことを身を以て知っていました。
だからこそ、症状に囚われず、身体全体のバランスを調え、病気を根本から改善する経絡治療を選んだのでした。
まさに運命に導かれたかのように、私の求めていたものとピッタリ合致した治療法でした。
また、正式に、ゆる体操準指導員1級の資格をとりました。
そして鍼灸院を開業するために、実家のある曽於市末吉町へ移転し、心機一転、新天地で頑張ることにしたのです。
卒業から約二年半後の開業と、少し早い気もしましたが、ゆる体操や身体意識理論で十数年間もポテンシャルを磨いてきた、自分を信じることにしました。
こうして平成二十四年十月、これまで学んできた英知の全てを注ぎ込んだ、源氣鍼灸治療院が誕生したのです。
治療への思い
治療とは、痛みなどの症状をなくすだけのものではないと思っています。
心身ともに元気になることで、日常を楽しく送り、そして人生を充実させるための手段が、治療だと考えています。
だからこそ、私は目の前の症状だけではなく、常に、患者さまの一年先、五年先、十年先まで見据えて施術をするようにしています。
今日の治療は、未来をつくるために在るものだと、心がけています。
みなさまの人生が充実して幸せなものであるように、健康と美容の面から精一杯サポートさせていただきたいと思います。
長々と読んでいただきありがとうございました。
源氣鍼灸治療院
院長 大川内拓也
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